ocr-generated 東京都指定旧跡
もうりかいのかみていあと
毛利甲斐守邸跡
所在地 港区六本木六丁目九番
指 定 昭和十八年三月十六日
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この地は、吉良邸討入りに加わった元赤穂藩士四十七人のうちの十人が預けられた長門長府藩毛利家麻布日ヶ窪
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上盤敷の一部である。中国地方の戦国大名毛利元就の孫に当たる秀元を初代とする毛利家は、現在の山口県下関市
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に論庁を置いた外様大名(三万六千二百石)である。赤穂事件当時の三代藩主毛利綱元(一六五〇~一七〇九)は、
五十六年間の在任中に歌臣団の整備や財政の建て直しを図り、藩政を確立させるとともに、歌集『七石集』を著すな
ど、和彌の学に長じた名君として知られている。
元禄十五年(一七〇三)十二月十日、藩主毛利綱元は、家老田代要人を語取人として江戸詰藩士三百余人を大目
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付仙石伯霊守邸(現在の港区虎ノ門丁目八)に遣わした。岡島八十右衛門常樹、吉田沢右衛門兼貞、武林佳隆重、
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高橋伝助武幸、個 光剛、村松喜兵衛秀画、杉野十平次次院、勝田新左衛門武秀、前原伊助宗院、小野
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門弥富の人の日ヶ産の江戸屋敷に収容された。
元禄十六年(一七〇三)二月四日、幕府の裁きにより十人は、便番斉藤次左衛門利常(千七百石)、目付鈴木次郎
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門福一(五百石)の立会いのもとに、この屋敷で武士の本懐を遂げた。この時、本藩である長州(秋)藩からも)
藩士が派遣されており、長府毛利家は、本来の保題を受ける立場であり、義士頼りに慎重を期したことが伺える。