村内観光総合案内
#読谷村 のあゆみ...
村内観光総合案内
#読谷村 のあゆみと村づくり
読谷村は、 #沖縄本島 中部の西海岸、 #東シナ海 に突き出た #半島 に位置した人口約4万1千人余り(2018年現在)の村です。東は緑濃い山並み、西は東シナ海に面し、南は #比謝川 を境とし、北は景勝の地・ #残波岬 に囲まれた、美しい自然と豊かな伝統文化に育まれたところです。
#三山時代 (14世紀頃)、中山王...
genjitsu_ (2020/12/22)
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世界遺産
護佐丸
沖縄戦
登り窯
壺屋
琉球王朝
城壁
連郭式
ペリー
残波岬
泰期
読谷村
比謝川
米軍
伊江島
米軍基地
三山時代
東シナ海
察度
役場
慶良間諸島
定置網
明
読谷村建設経済部商工観光課
沖縄本島
半島
進貢貿易船
大交易時代
読谷山花織
ヤチムン
赤犬子
琉球古典音楽
島唄
統治時代
日本復帰
隆起サンゴ礁
大獅子
アーチ門
漁業協同組合
ジンベエザメ
ダイビング
グラスボート
天ぷら
喜名番所
読谷村商工観光課
読谷村ゆたさむら推進部商工観光課
座喜味城
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39
沖縄県
読谷村
南風原国民学校学童集団疎開記念碑
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南風原国民学校学童集団疎開記念碑
昭和19年6月の閣議決定を受け、第一次124人が、8月21日 #和浦丸 で #熊本県 #日奈久 、 #坂本 へ、第二次146人は、9月9日に #一進丸 で #宮崎県 #高鍋 、#三財 、 #上穂北 、 #美々津 へ #学童集団疎開 しました。引率教師、その家族合わせて総勢270人でした。
幼い学童達は、親元を離れ異郷の地で、「...
wawa (2020/11/23)
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沖縄戦
熊本県
坂本
宮崎県
和浦丸
日奈久
一進丸
高鍋
三財
上穂北
美々津
学童集団疎開
沖縄県
南風原町
九六式十五糎榴弾砲(きゅうろくしきじゅうご...
九六式十五糎榴弾砲(きゅうろくしきじゅうごせんちりゅうだんほう)
りゅうだんほうさたいへいようせんそう おきなわせん
この#榴弾砲 (りゅうだんほう)は、去(さ)る#太平洋戦争 (たいへいようせんそう)の#沖縄戦 (おきなわせん)において、#日本軍 (にほんぐん)が使用(しよう)した大砲(たいほう)で、平成(へいせい)16年(ねん)12月(がつ)、西原町幸地集落...
genjitsu_ (2018/02/11)
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沖縄戦
太平洋戦争
日本軍
榴弾砲
沖縄県
西原町
八九式十五糎加農砲(はちきゅうしきじゅうご...
八九式十五糎加農砲(はちきゅうしきじゅうごせんちかのんほう)
昭和4年に#旧日本軍 によって、制式化された大砲で開脚式装輪砲架を持ち、遠距離でも命中精度にすぐれていた。砲身車と砲架車をそれぞれ牽引車で牽引して移動し、陣地で組み立てて使用したが、準備に1時間程かかったそうである。
大里村内には、1945年3月に旧日本軍陸軍独立重砲兵第百大隊が布陣した際に、二門が配...
genjitsu_ (2018/02/03)
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沖縄戦
靖国神社
旧日本軍
沖縄県
南城市
SHURI CASTLE の碑
こ...
SHURI CASTLE の碑
この碑は、#琉球大学 の創設を記念して、1950年に#米軍 当局により建立されたものである。
3段からなる#琉球石灰岩 の台の上の石には、次のような英文の内容の青銅製銘板が嵌め込まれている。
「#沖縄戦 で跡形もなく破壊された#首里城 は、1166年から1879年の間、琉球国王の居城であった。#琉球王国 がその黄金時代を誇った...
genjitsu_ (2018/01/15)
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琉球王国
沖縄戦
首里城
琉球石灰岩
米軍
琉球大学
沖縄県
西原町
仲村渠#樋川 (国指定重要文化財:平成7年...
仲村渠#樋川 (国指定重要文化財:平成7年6月27日指定)
仲村渠樋川(なかんだかりひーじゃー)は、仲村渠集落の共同用水施設で、沖縄の伝統的な石造井泉(せきぞうせいせん)を代表するものである。
古くはうふがーと呼ばれ、水場に木製の樋(とい)をすえた程度の施設だったようだが、大正元年(1912)から翌年にかけて、#津堅島 (つけんじま)の#石工 により#琉球石灰...
genjitsu_ (2018/01/01)
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沖縄戦
拝所
石畳
湧水
琉球石灰岩
農業用水
樋川
津堅島
石工
共同風呂
五右衛門風呂
沖縄県
南城市
旧#日本海軍 の魚雷(推進部分)
...
旧#日本海軍 の魚雷(推進部分)
展示されている#魚雷 は、#平成9年 6月に、字#宜保 にあった旧#海軍部隊格納壕跡地 からビル建築工事中に発見されたものである。
この格納壕は、旧#海軍山根部隊 の設営隊が構築したものと言われ、#兵器庫 として使用されていたと言われる。
発見された魚雷は全9本で、展示しているこの2本も、その時に出土したものである。その他...
thimigushiku_tara (2017/06/05)
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沖縄戦
魚雷
日本海軍
宜保
豊見城
平成9年
海軍部隊格納壕跡地
海軍山根部隊
兵器庫
火薬
弾頭
大田実海軍少将
沖縄方面根拠部隊
司令部壕
沖縄県
豊見城市
真玉橋遺構1(豊見城市指定文化財)
...
真玉橋遺構1(豊見城市指定文化財)
#真玉橋 は、#1522年 (嘉靖元)首里と島尻地方を結ぶ交通の要として築かれました。その端は#木橋 の#五連橋 で、中央を真玉橋といい、南側が#世持橋 、北側が#世寄橋 、両端は名前のない橋でした。#1707年 (康煕46)に石橋への改築工事が開始され、翌年完成しました。その後、#1837年 (道光17)に世寄橋を改築し、その...
thimigushiku_tara (2017/04/13)
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沖縄戦
真玉橋
木橋
1522年
五連橋
世持橋
世寄橋
1707年
世済橋
スーチリ
潮切り
1837年
六連の石橋
1996年
沖縄県
豊見城市
真玉橋遺構2(豊見城市指定文化財)
...
真玉橋遺構2(豊見城市指定文化財)
#真玉橋 は、#1522年 (嘉靖元)#首里城 並びに#軍事要所 である#那覇港 及び那覇を防御することを目的として、#第二尚氏 第三代国王#尚真 の時代に架けられた橋です。また、琉球王府時代には首里と島尻地方を結ぶ交通の要でもありました。
当初、真玉橋は#五連橋 の#木橋 であり、中央を真玉橋といい、南側が#世持橋 、北側...
thimigushiku_tara (2017/04/13)
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沖縄戦
首里城
遺構
真玉橋
那覇港
木橋
1522年
軍事要所
第二尚氏
尚真
五連橋
世持橋
世寄橋
1707年
1809年
1836年
世済橋
スーチリ
潮切り
石工技術
現地保存
復元
1837年
重修真玉橋碑文
1995年
市有形文化財
豊見城市歴史民俗資料展示室
真玉橋自治会
1980年
沖縄県
豊見城市
与根の塩づくりと「塩田跡」
字#与...
与根の塩づくりと「塩田跡」
字#与根 の#塩田 は、#干潟 を利用した#入浜式塩田 で、かつては#泊潟原 (那覇市)、#泡瀬 (沖縄市)などと並ぶ県内でも主要な#製塩地 となっており、そこで生産される塩は「#与根マース 」の名で知られた。その起源は、明治30年代中ごろ、おもに那覇・泊からの移住者らにより始められたものである。
当時の塩づくりは、塩田に砂をま...
thimigushiku_tara (2017/04/06)
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沖縄戦
干潟
与根
塩田
入浜式塩田
泊潟原
泡瀬
製塩地
与根マース
クミ
ろ過槽
約3万8千坪
マースヤー
煙突
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沖縄県
豊見城市
石火矢橋「イシバーシ」
#石火矢橋...
石火矢橋「イシバーシ」
#石火矢橋 は、#豊見城グスク の南東をながれる#饒波川 下流に架かる#橋 で、戦前まで美しい曲線のアーチとそれを支える独特な形の橋脚が連なる#5連 の#石造アーチ橋 であった。橋の創建年代は定かでないが、橋には、#三山時代 、#尚巴志 が#南山 の支配下にあった豊見城グスクを攻めようと城内に#女間者 を送り、謀計によって架けさせたとの伝説...
thimigushiku_tara (2017/04/06)
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沖縄戦
首里城
尚巴志
橋
石橋
琉球石灰岩
船着場
饒波川
真玉橋
豊見城グスク
南山
三山時代
石火矢橋
5連
石造アーチ橋
女間者
木橋
重修石火矢橋碑
眞珠道
製糖工場
那覇のマチ
市場
潮切
スーチリー
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沖縄県
豊見城市
田頭のシーサー
この#シーサー (...
田頭のシーサー
この#シーサー (#石獅子 像)は、字#田頭 に設置された2体のうちの一つで、集落の西端に位置し、西の彼方からやってくるあらゆる災厄から集落を護るために置かれているのだという。
もう1体は、ここから北東向け200mほど離れた集落内の住宅脇に置かれ、シジ(霊力)高い場所だという字#与根 の#数珠森 (#ジジムイ )に向けられている。
...
thimigushiku_tara (2017/04/06)
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沖縄戦
シーサー
与根
田頭
石獅子
数珠森
ジジムイ
戦車
アメリカ軍
民俗文化財
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沖縄県
豊見城市
保栄茂グスク
#保栄茂グスク は、...
保栄茂グスク
#保栄茂グスク は、#保栄茂 集落の北東側に位置する標高106mの丘陵上に形成された#グスク である。
『豊見城村史(1964年刊)』によれば、#三山時代 、中山に対峙する第一線の拠点である瀬長、豊見城、長嶺の各グスクに対し#南山グスク からの中継地としての役割をもつ出城ではなかったかと考えられている。
グスク内北側に所在する「殿」...
thimigushiku_tara (2017/04/06)
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沖縄戦
組踊
青磁
琉球国由来記
日本軍
保栄茂
保栄茂グスク
グスク
陶器
グスク系土器
長嶺グスク
白磁
三山時代
南山グスク
神人
カミンチュ
祭祀
柱穴跡
炉跡
鉄製品
平良グスク
琉球王府時代
冊封使歓待
陣地
監視哨
戦争遺構
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五月ウマチー
六月ウマチー
沖縄県
豊見城市
瀬長島(瀬長グスク)
#瀬長島 は...
瀬長島(瀬長グスク)
#瀬長島 は、豊見城市西岸から沖合約600mに浮かぶ周囲約1.5km、最標高約30m、面積約18haの島である。戦前まで約30戸が北側平野部(現・野球場一帯)に集落を構え、半農半漁の暮らしを営む有人島であった。
太古の時代、琉球の国を創った#アマミキヨ の子、#南海大神加那志 が最初にこの島に住み、そこから#豊見城の世立て が始まった...
thimigushiku_tara (2017/04/06)
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沖縄戦
按司
琉球王府
組踊
青磁
琉球国由来記
瀬長島
アマミキヨ
南海大神加那志
豊見城の世立て
豊見城発祥伝説
瀬長グスク
グスク
陶器
グスク系土器
アンジナ
徐葆光
沖縄八景
米軍基地
海中道路
米海軍弾薬貯蔵基地
子宝祈願
子宝岩
イシイリー
アカサチ森
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沖縄県
豊見城市
高安の龕屋と龕ゴウ祭
#龕 とは、...
高安の龕屋と龕ゴウ祭
#龕 とは、野辺送りの際に、死者を納めた棺をのせて運ぶ屋形型の輿のことである。この建物は龕が安置されている建物で「#龕屋 」と呼ばれており、2001年(平成13)に改築された。
字#高安 の龕がいつ頃から使われ始めたのかは記録がなく定かでないが、現在の龕は#沖縄戦 で破壊されたものを1952年(昭和27)に再建し、1968年(昭和43...
thimigushiku_tara (2017/04/06)
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沖縄戦
無病息災
高安
龕屋
旗頭
龕
旧暦
仏教的
豊見城
沢岻
龕ゴウ祭
豊年
棒術
空手
琉球舞踊
道ズネー
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沖縄県
豊見城市
泊港および周辺の旧跡
那覇市前島3-25...
泊港および周辺の旧跡
那覇市前島3-25
#琉球王国 の中心であった浦添や首里と陸続きの泊港は、安里川の河口に位置し陸路・水路とも交通の便が良かったため、13~14世紀にかけ宮古・八重山・奄美大島などの船も出入りし、賑わいを見せた港であった。当時泊には、諸島の事務を取り扱う「泊御殿(トゥマイウドゥン)」や貢ぎ物を収納する「大島倉」が置かれていた。しかし、その後の海外交...
gotosheng (2017/04/04)
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琉球王国
沖縄戦
ペリー
沖縄県
那覇市
伊良波収容所跡
#沖縄戦 において...
伊良波収容所跡
#沖縄戦 において生存者や捕虜等を収容する施設である収容所は、沖縄県内に数多く存在した。当時の豊見城村において、初期段階で設置されたのが通称「#伊良波収容所 」である。
沖縄戦終盤、#伊良波 集落北側に#米軍 によって設置され、主に本島南部の激戦地でとらえられた人々が最初に送られた一時的な#収容所 であった。ここでは検査や尋問、応急手当など...
thimigushiku_tara (2017/04/03)
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沖縄戦
伊良波収容所
伊良波
収容所
座安
与根
田頭
日本軍
戦後復興
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米軍
沖縄県
豊見城市
旧泉崎橋跡(キュウイズミザキバシアト)
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旧泉崎橋跡(キュウイズミザキバシアト)
那覇市久茂地1-6
久茂地川に架けられた橋跡。泉崎村と対岸に浮かぶ「浮島」(那覇)を結んだ。橋の架橋年は不明。1683年来琉の#冊封使 汪楫(おうしゅう)が著した『使琉球雑録』に「泉崎橋口」と登場する。
1717年、那覇港への土砂の堆積を防ぎ、川の流力を高めるために行われた浚渫工事に伴い、泉崎橋の規模を大きくしたという(「新濬...
gotosheng (2017/03/30)
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沖縄戦
冊封使
孔子廟
沖縄県
那覇市
沖縄の軽便鉄道
沖縄では、本土の汽車より...
沖縄の軽便鉄道
沖縄では、本土の汽車よりも規格が小さい軽便鉄道(けいべんてつどう)というものが1945年(昭和20年)まで走り人々からは「ケービン」と呼ばれ親しまれていました。
#軽便 鉄道が最初に運行したのは1914年(大正3年)のことで、那覇駅(現在の市外線バスターミナル)を起点に、東海岸の港町である与那原町を結んだ与那原線と那覇港(現在の那覇埠頭)へ延びる海陸連...
gotosheng (2017/03/29)
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沖縄戦
沖縄県営鉄道
軽便
沖縄県
那覇市
特攻艇秘匿壕
村指定戦争遺跡
この洞窟...
特攻艇秘匿壕
村指定戦争遺跡
この洞窟は#沖縄戦 における旧日本軍「海上特攻艇」の秘匿格納壕である。
この壕は、黒色千枚岩の堅い岩石をくりぬいて構築されているが、壕の掘削には主に朝鮮人軍夫があたり、島の女子青年が協力をしたと伝えられている。
特攻艇は「マルレ」と呼ばれ、ベニヤ板製で船幅1.8米、艇長5.6米、重量1,200kgの半滑送型ボートで120kgの爆雷2個...
gotosheng (2017/03/29)
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沖縄戦
沖縄県
渡嘉敷村
渡嘉敷村指定文化財 史跡「集団自決跡地」
...
渡嘉敷村指定文化財 史跡「集団自決跡地」
~集団自決の実相・ここであったこと~
~1945年4月2日ロサンゼルスタイムス朝刊から~
■侵攻軍、日本民間人の集団自殺を発見
「野蛮なヤンキー」の噂で「拷問」より死を選ぶ日本人達
琉球列島、3月29日(遅)(AP)- 部一国の「野蛮人」の前に引き出されるよりも自殺する方を選んだ日本の民間人(注;渡嘉敷島の人々)が、死体...
gotosheng (2017/03/27)
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沖縄県
渡嘉敷村
集団自決跡地
記
この台地後方...
集団自決跡地
記
この台地後方の谷間は去る大戦において住民が集団自決をした場所である 米軍の上陸により追いつめられた住民は友軍を頼ってこの地に集結したが敵の砲爆は熾烈を極め遂に包囲され行く場を失い刻々と迫る危機を感じた住民は「生きて捕虜となり辱めを受けるより死して国に殉ずることが国民としての本分である」として昭和20年3月28日祖国の勝利を念じ笑って死のうと悲...
gotosheng (2017/03/27)
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沖縄県
渡嘉敷村
饒波の龕屋跡地
この場所は、字#饒...
饒波の龕屋跡地
この場所は、字#饒波 の「#龕 」を保管する建物「#龕屋 」の跡地である。龕とはかつて#葬儀 の際に死者を運ぶために使われた屋形型の輿のことで、現在でいう霊柩車のようなものである。龕本体には、蓮の花やお坊さん等、仏教に関する絵が描かれ、屋根部分にはシャチホコや鳥などの装飾が施されている。全体が朱色で彩色されていることから「#アカンマ(赤い馬) 」と...
thimigushiku_tara (2017/03/23)
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高安
龕屋
饒波
龕
葬儀
アカンマ
野辺送り
ソーローウトゥム
平良
高嶺
金良
南風原津嘉山
旧暦8月9日
龕の祝い
コーヌユーエー
十三年マーイ
沖縄戦
沖縄県
豊見城市
戦没新聞人の碑
1945年春から初夏にか...
戦没新聞人の碑
1945年春から初夏にかけて沖縄は戦火につつまれた 砲煙弾雨の下で新聞人たちは二ヶ月にわたる新聞の発行をつづけた これは新聞史上例のないことである その任務を果たして戦死した十四人の御霊はここに眠っている
***
#沖縄戦
gotosheng (2016/08/22)
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沖縄戦
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那覇市
対馬丸犠牲者の慰霊碑 小桜の塔
沖縄で地...
対馬丸犠牲者の慰霊碑 小桜の塔
沖縄で地上戦が始まる前年、1944年8月21日疎開船対馬丸は学童834名を含む疎開者1661名を乗せ、2隻の僚船とともに護衛艦2隻に守られて、長崎に向けて那覇港を出港しました。当時の沖縄・九州の間は、敵潜水艦が出没する危険な海域でした。
翌8月22日午後10時過ぎ、那覇の沖合からこの船団を追いかけてきた米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受...
gotosheng (2016/08/22)
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沖縄戦
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那覇市
対馬丸記念館
疎開船対馬丸で犠牲になった...
対馬丸記念館
疎開船対馬丸で犠牲になった子どもたちの資料館
Tsushima-maru Memorial Museum
昭和19(1944)年7月7日、サイパン島の日本軍が全滅すると次はいよいよ沖縄が戦場になる危険が大きくなり、政府は沖縄の子どもやお年寄り女性など、10万人を県外に疎開させる決定を下し、学童疎開のために沖縄県学童疎開準備要項を発令しました。学童疎開は...
gotosheng (2016/08/22)
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那覇市
トーチカ
トーチカとは、ロシア語で「点」...
トーチカ
トーチカとは、ロシア語で「点」や「拠点」を意味する軍事用語で、防御の中心となる陣地のことです。
このトーチカは鉄筋コンクリート製で、厚さは最大1mあり、内部は2m四方で、大人が3名ほど入れる広さです。北側の比屋良川に向けて、射撃するための銃眼(図中の青部分)が2か所あり、そこから小銃や機関銃などを出して、米軍を攻撃しました。
トーチカには、弾痕が無数にあり...
gotosheng (2016/07/26)
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沖縄県
宜野湾市
陣地壕
嘉数に駐屯した日本軍は、嘉数高地...
陣地壕
嘉数に駐屯した日本軍は、嘉数高地を中心とした周辺地域にいくつもの陣地壕を築きました。
陣地壕の構築は、1944(昭和19)年の夏頃から開始されたようで、朝から夕方までの作業が毎日続けられました。兵士だけでなく、嘉数や周辺地域からも、老人や女性を含む多くの人々がかりだされました。
陣地壕は、石灰岩をくりぬいてコの字型に構築され、側壁には落盤防止用の杭木の跡もあ...
gotosheng (2016/07/26)
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宜野湾市